(写真:パナマシティ上空を飛翔するオオグンカンドリの群れ)
生物多様性条約第27回科学技術助言補助機関会合(SBSTTA27)にインターンとして参加しています。この会議では、生物多様性条約締約国会議(COP)への勧告文書が作成されており、文章のひとつひとつの表現をめぐって、各国の代表者たちが活発に議論を交わしています。
会議の休憩時間、引率してくださっているIUCN-Jの道家さんと、その知り合いの専門家が雑談をしている場に居合わせました。その知り合いの方が、こんなことをおっしゃっていました。
「以前のCOPで日本が提案した『living in harmony with nature(自然と調和して生きる)』という考え方は、私にとって非常に新鮮で、新しい気づきをくれました」
その言葉に、私は少し驚きました。「人間が自然の一部である」「自然と共に生きる」という考え方は、私にとってほとんど当たり前のことだったからです。しかし、世界には、この考え方が新鮮で「新しい気づき」となる文化圏があります。
今回は、日本と西洋の間で自然の位置付けにどのような違いがあるのか、また西洋で環境保護の意識が高まっている背景は何なのかについて考えます。
日本の自然観:森羅万象との共生
日本の自然観の根底には、「八百万の神(やおよろずのかみ)」という思想があります。これは、太陽や月、山や川といった壮大な自然物から、風や雷のような自然現象、さらには木や岩、台所、使い古した道具に至るまで、あらゆるものに神性が宿るという、神道のアニミズム的な世界観です。
この考え方の特徴は、神が自然の「内」に存在するという点です。特定の建造物や天上に神がいるのではなく、自然そのものに神が内在しているということです。つまり、神と自然、そして自然と人間との間に、明確な境界線が引かれていないのです。
さらに、日本列島の地理的・気候的な特徴も、この自然観の形成に深く関わっています。日本は四季が明瞭で、温暖多雨という恵みをもたらす一方、地震や台風といった自然災害も頻繁に発生します。人々は、自然の恵みに感謝すると同時に、その圧倒的な力の前では無力であることを知っていました。そのため、自然の恵みと脅威の両面をありのままに受け入れることができ、自然の中で生かされているという価値観が育まれました。
西洋の自然観:支配する客体
一方、西洋の自然観は、日本とは根本的に異なる構造を持っています。
その基盤となったのが、キリスト教の旧約聖書『創世記』です。天地創造の物語の中で、神は人間を自らに似せて創り、「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地に動くすべての生物を治めよ」と告げました。この言葉は、自然は神が人間のために創造したものであり、人間が「信託管理人(steward)」としてそれを支配し(従わせ)管理する(治める)ことが神の意志であるという、人間中心主義を確立しました。
この世界観の最大の特徴は、神が自然の「外」に存在する超越者であるという点です。自然は神そのものではなく、神によって創造された「被造物」に過ぎません。これにより、かつて古代の多神教世界で崇拝の対象だった自然は、人間が支配・管理すべき単なる物へと変わりました。
この世界観は、後の科学革命によっても後押しされたと考えられます。ニュートンによる万有引力の法則発見などにより、自然は人間が理解できる、秩序正しく予測可能なシステムであることが示されました。科学は自然の秘密を解き明かす鍵であり、また、技術は自然を支配する武器となりました。その後の産業革命を経て、技術による圧倒的な支配が可能になった人類は、かつてない規模で自然資源を採掘し、自然を作り変えていきました。

写真:パナマシティのカスコ・ビエホ地区にある教会で出会ったAI神父
西洋の環境意識が高いのはなぜか?
ここで、一つの疑問が生まれます。もし西洋が「自然支配」の思想を持っているのなら、なぜ現代の西洋諸国は環境保護に熱心なのでしょうか?
その答えは、「自然支配」の再解釈にあると考えます。
18世紀半ばからの産業革命がもたらした革新的な技術により、環境破壊は急速に進行しました。その深刻さは火を見るより明らかで、人々は「支配」の結果として自然が失われていく現実を目の当たりにします。
そして、20世紀にはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出版されます。この本は、農薬が生態系と人体に及ぼす影響を科学的に証明し、自然保護の必要性を論理的に示しました。「鳥の歌声のない春」という表現は、喪失のイメージとして人々の心を強く捉え、現代環境運動の起点となりました。その後のヨーロッパでは、1973年に策定された「第1次環境行動計画」など、画期的な法制度が次々と整備されることになります。
キリスト教の人間中心主義では、自然は人間のために作られたものであり、人間が自然を「従わせ」「治める」ことが神の意志であるとされています。人々は「従わせよ」と言う言葉に支配の意を見出し、自然破壊を繰り返してきました。一方で、人が神から与えられた任務は、自然を従わせると同時に「治める」、つまり管理・保護することです。行き過ぎた環境破壊の現実やカーソンの提言によって、人々はこの忘れられていた義務を再認識したのではないでしょうか。自然を管理・保護することもまた神の意思であり、人はその意思を全うする義務があると改めて捉えるようになった結果、今日の欧州に見られる高い環境意識ができあがったと考察します。
まとめ:国際会議の場で得られる気づき
「人間は自然の一部である」という考え方は、私にとって当たり前のことでした。しかし、それは日本という文化圏で育ったからこその感覚であり、世界には全く異なる自然観を持つ人々がいます。
西洋の科学的アプローチや法制度による環境保護の仕組みは、日本が学ぶべき点でもあります。足尾銅山鉱毒事件や水俣病公害など、日本の伝統的な自然観だけでは環境問題を解決できないことも多くあります。
国際会議に参加することの素晴らしさは、まさにここにあると感じます。他の国の優れた考え方や制度を吸収できると同時に、第三者の視点から見た自分たちの文化や価値観の良さを再発見することができるのです。
会議場では、文章の一つ一つの表現を巡り、長時間の議論が交わされていました。それは、単なる言葉の選択ではなく、その背後にある各国の文化や価値観、世界観のぶつかり合いでもあります。そして、その対話の中から、より良い未来のための新しい視点が生まれていくのだと、今回の経験を通じて実感しました。
地球環境問題という人類共通の課題に向き合うためには、一つの文明の価値観だけでは不十分です。それぞれの良さを学び合い統合していくことが持続可能な未来への道であり、国際会議の場は、そうした相互理解と学び合いの貴重な機会を提供しているのだと感じました。

筑波大学大学院/IUCN-Jインターン
福井涼士























